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No.8
カヒサレがチャトランガする話
〆ギド
#カヒサレ
遊戯盤のルールは適当です 最後だけややイチャイチャしている
村で唯一の酒場は大人たちの社交場も兼ねていて、日の高いうちから誰かしらちらほらと人がいる。カヒムとサレオスが蝶番の軋む横板の扉をくぐったときには案の定、仕事を早く切り上げた者や暇を持て余した者たちが数人、軽食をつまみにちびちびと酒を舐めていた。入り口近くの者がサレオスの顔を見て朗らかに盃を掲げる。
「よう、渡守の兄ちゃん」「久々だな」
「ああ、大きな仕事が終わったんでね」
カウンターの向こうの女将は、近付いてきたカヒムに酒の瓶を二本どっかりと置き渡す。家で飲むためにいつも頼んでいる分だ。
「たまにはここで飲んでいったらどうだい?みんな外の話を聞きたいだろうし」
カヒムは眉根を寄せながらそっと酒場を見渡した。女将の言う通り、久方ぶりの外の客からの話を期待する視線がひしひしとサレオスに注がれているのが見て取れる。閉鎖的な村では旅人からの話が何よりの娯楽だ。だが、カヒムは酒を買ったらすぐに帰ってサレオスと二人、差し向かいで飲むのを楽しみにしていたのだ。当のサレオスはそんな空気を知ってか知らずか、得意の冗談を交えて卓々に挨拶なぞしたり、以前より増えたメニューに喜んだりしている。ふとその目が、カウンターの隅に置かれた遊技盤に留まった。
「へえ、チャトランガじゃないか。誰かやるのかい」
途端、ニュースを逃したくない者たちがわらわらと集まって遊技盤とサレオスを取り囲んだ。
「だいたいのやつはできるぜ」「渡守の兄ちゃんもやるクチかい」「おいそこのテーブル寄せてくれ」「駒はどこだ?」
カヒムは酒瓶を両手に持ったまま嘆息した。その遊技盤は、いつだかの折に流れてきた詐欺師崩れらしき男が持ち込んだものだ。元は王都で流行した、勢を凝らした貴族用の調度品である。木製のそれは安価な複製品だったが、娯楽の少ないこの村では喜びを持って迎えられ、今では老若男女問わず村中の者が片手間に一指しできるほどに広まっている。
「女将、駒が一つ足りねぇぞ」
頓狂な声に、女将が「ガキどもの仕業だね」と舌打ちで答えた。遊技盤のルールを知らない村の子らがしばしば、意匠の気に入った駒を持ち出して遊んでいるらしい。
「駒が無きゃできないだろ。よし、帰るぞ」
しめたとばかりにカヒムはサレオスの背を押す。落胆する客たちの中でしかしサレオスは、「待てよ、チャトランガなら確か…」と言って腰に下げた革袋を探った。
中から出てきたのは木彫りの駒だった。カヒムはギクリとした。駒がひと目で良い代物だとわかる造りだったからだ。個人で駒を持つのは王都の流行りで、貴族たちは己の財力の一端をさり気なく誇示するために、職人を雇って豪勢な細工を凝らす。カヒムが“狂剣”だった頃の知識だ。サレオスの駒の細工と材質は、貴族並とはいかずとも、明らかに王都の職人かそれと同等の技術を持った者の手による代物だった。
「サレオス」
「すまんカヒム、少しだけ指して行っていいか?」
「いや、そのことじゃ……」
「負けたら帰るよ」
言い淀んでいるうちに、サレオスは駒を持って即席の大会会場へ向かって行ってしまった。村人たちの中には駒の価値に気付いたような顔をする者もいたが、誰も仔細を聞かない。そうだった、ここはそういう村だ。安堵の念がぼんやりと広がり、カヒムは手近な椅子に座った。ただの渡守が趣味で持つには少々凝った細工の駒。まるで軍人や兵士が褒賞として賜ったような。渡し賃の代わりに客に貰った、と言われればそれまでのことだ。考えても詮はない。
負けたら帰ると言っておいて、サレオスが負ける様子はとんとなかった。一局、もう一局、と請われるまま指すうちに、来客の報を聞き付けた村の衆が集まり出し、日が傾き始めた酒場は少し早く夜の賑わいを取り戻そうとしていた。
「あんたら、新顔と指したくてわざと負けてるんじゃないだろうな」
いい加減待ちくたびれてきたカヒムが疑ると、「違う、違うって!」鋳掛屋と粉引きの親父が揃って否定する。
「渡守さん、本当に強いんだよ!」
「相当やり込んでるぜありゃあ」
村に来る前からよく指していたという二人が言うのだから嘘ではないようだ。カヒムも素人ではない。指し方を見れば上手いかそうでないかくらいはわかる。思いがけぬ強豪の参戦に卓は盛り上がり、サレオスもサレオスで、勝つ度に酒を奢られるので満更でもないらしい。ほんのり染まった顔を綻ばせ、駒を並べ直しながら次の相手を待っている。今頃ならあの顔は自分に向けられていたはずだったのに。カヒムの心中に子供じみた独占欲が鎌首をもたげてきた。待っている間に少しだけ、と飲んでいた酒も悪かったのかもしれない。一度意識するとその熱は酒の勢いを借りて膨れ上がっていく。そうだ、そもそも約束はこっちが先なのだ。外の話を聞きたいとか言っておいて皆すっかり忘れていやがるし。どうせ数日しか居られないのに、その貴重な時間を潰されるのは耐え難い。
どうにも我慢できず、カヒムは椅子から立ち上がった。人混みをかき分けて、遊戯盤を挟んでサレオスの向かいに強引に座る。サレオスが一瞬きょとんと目を見開く。
「カヒム」
「俺が勝ったら帰るぞ」
言い放つと、強気な挑戦者の登場に、ヒューッという口笛と歓声、不満の声が半々に上がって酒場が揺れた。サレオスはバツが悪そうに後頭部を撫でて、飲みかけていた酒を脇に置いた。そして、どこか好戦的に笑いながら駒を配した。
威勢よく挑んだはいいが、駒を一つ二つ動かした時点で早くもカヒムは後悔し始めていた。実は村に来る前から遊技盤のルールは知っている。村での流行にも乗ってそこそこいいセンまで行ったクチだが、今指していたサレオスの腕には到底及ばないであろうことは酔いの回った頭でもよくわかる。
チャトランガの戦略は攻撃寄りと守備寄りに大きく分けられるが、サレオスは主に守りの型だ。臣の駒が動きの要となって王を守る。相手の進軍をある程度までは許すが、その間に固められた布陣がそれ以上の進行を許さない。先程敗けた者たちは、最初こそ優勢だが途中から鉄壁の臣を超えられず、攻めあぐねている隙に王を取られる…といったパターンばかりだった。カヒムは思案する。素の腕で敵わないなら意表を突くしかない。
「おっと、いいのかい」
サレオスが面白がるような声を出した。カヒムは戦車の駒を囮に、サレオスの臣の駒を取る。無防備になった戦車は次の手であっさりと取られてしまう。カヒム側の戦力が大きく削がれた形だ。
「おい、そんなことしたら逃げしかなくなるだろ」
外野が野次を飛ばすが、カヒムは駒に集中した。攻勢寄りになったサレオスの手からギリギリのところで王を逃し続ける。相当飲んだと思われるのにサレオスの腕は衰えることはなく、気を抜けば一瞬で詰んでしまいそうだ。
「どうする?ジリ貧だぜ、このままじゃ」
こちらの王を追い詰めながらからかうように笑うサレオスの表情に、異様な凄みが過ぎった気がして、カヒムはゾクリとした。ともすれば魅入られそうになるのを堪えて、慎重に一手、指す。観客の中からあっと声が上がった。
「渡守さん、詰みだ!」
どよめきが広がった。逃げる合間に進められていた歩兵の駒が、守りのわずかに崩れた隙からサレオスの王を捉えていた。審判代わりの者たちが検証も忘れて息を呑む横で、カヒムはサレオスの酒を奪い一息に飲み干して言い放った。
「俺の勝ちだ」
盤上の駒に目を走らせていたサレオスは、その宣言にくっと喉奥で笑った。普段の快活な笑いとは違ったそれは、しかし、心底愉快そうな笑みだった。
「まいった、投了だ」
サレオスの両手が掲げられた瞬間、弾かれたように歓声が上がった。新たな王者を逃さんとする客たちが集まってくるよりも早く、カヒムは急いで席を立った。押し付けられるグラスを退け、飛び交うエールの泡をくぐって、サレオスの腕を掴んで酒場から逃げ出した。蹴破るように通り抜けた横板の扉が、背後で抗議するようなきしみ声を上げていた。
家までの道のりはよく覚えていない。強い酒に当てられた頭で、振り返ってはちゃんと正しい手を握っているか月明かりに確認した。背後からは衣擦れとともに時折笑い声が聞こえる。くぐもったそれは、水底の泡の立てる音にも似ていた。
帰り着いてすぐ、灯りもつけずに、閉めたばかりの扉に体を押し付けて口づけた。サレオスはされるがままにしていた。走ったばかりの、酒精の香り濃い互いの息に溺れるように苦しくなって、唇の端だけ触れ合わせて荒い呼吸を逃がす。
「わざと負けたろ」
「さあ……どうかな、いい手だったぜ」
はぐらかすその声音からは真意が読み取れない。だがカヒムは絶対に嘘だと思った。あれだけの腕を持ちながら、歩兵の動きに気付かなかったはずがない。カヒムが勝利宣言をした後からだって、巻き返すことは不可能ではなかっただろう。結局また、手のひらの上だ。
息を整えていたサレオスが、あ、と声を上げた。
「駒、忘れてきちまった」
あの、造りの良い兵士の駒。きっと今頃は飲兵衛の指し手たちが、誰の駒かも忘れて二次大会に興じているに違いない。
「明日取りに行こう」カヒムは言って、急いで付け加える。「で、もう一局やるぞ。今度は酒も手加減もなしだ」
サレオスは顔を隠すようにして頷いた。笑っている。言い訳しようとすると、「じゃあ今日は?」と問われた。酒と勝負の興奮の名残で潤んだ目がこちらを見上げている。そんなこともう、手を読まずとも決まっている。カヒムはもう一度深く口づけると、サレオスをかき抱くようにして寝台へと向かった。
〆ギド文
2022.11.4
No.8
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「よう、渡守の兄ちゃん」「久々だな」
「ああ、大きな仕事が終わったんでね」
カウンターの向こうの女将は、近付いてきたカヒムに酒の瓶を二本どっかりと置き渡す。家で飲むためにいつも頼んでいる分だ。
「たまにはここで飲んでいったらどうだい?みんな外の話を聞きたいだろうし」
カヒムは眉根を寄せながらそっと酒場を見渡した。女将の言う通り、久方ぶりの外の客からの話を期待する視線がひしひしとサレオスに注がれているのが見て取れる。閉鎖的な村では旅人からの話が何よりの娯楽だ。だが、カヒムは酒を買ったらすぐに帰ってサレオスと二人、差し向かいで飲むのを楽しみにしていたのだ。当のサレオスはそんな空気を知ってか知らずか、得意の冗談を交えて卓々に挨拶なぞしたり、以前より増えたメニューに喜んだりしている。ふとその目が、カウンターの隅に置かれた遊技盤に留まった。
「へえ、チャトランガじゃないか。誰かやるのかい」
途端、ニュースを逃したくない者たちがわらわらと集まって遊技盤とサレオスを取り囲んだ。
「だいたいのやつはできるぜ」「渡守の兄ちゃんもやるクチかい」「おいそこのテーブル寄せてくれ」「駒はどこだ?」
カヒムは酒瓶を両手に持ったまま嘆息した。その遊技盤は、いつだかの折に流れてきた詐欺師崩れらしき男が持ち込んだものだ。元は王都で流行した、勢を凝らした貴族用の調度品である。木製のそれは安価な複製品だったが、娯楽の少ないこの村では喜びを持って迎えられ、今では老若男女問わず村中の者が片手間に一指しできるほどに広まっている。
「女将、駒が一つ足りねぇぞ」
頓狂な声に、女将が「ガキどもの仕業だね」と舌打ちで答えた。遊技盤のルールを知らない村の子らがしばしば、意匠の気に入った駒を持ち出して遊んでいるらしい。
「駒が無きゃできないだろ。よし、帰るぞ」
しめたとばかりにカヒムはサレオスの背を押す。落胆する客たちの中でしかしサレオスは、「待てよ、チャトランガなら確か…」と言って腰に下げた革袋を探った。
中から出てきたのは木彫りの駒だった。カヒムはギクリとした。駒がひと目で良い代物だとわかる造りだったからだ。個人で駒を持つのは王都の流行りで、貴族たちは己の財力の一端をさり気なく誇示するために、職人を雇って豪勢な細工を凝らす。カヒムが“狂剣”だった頃の知識だ。サレオスの駒の細工と材質は、貴族並とはいかずとも、明らかに王都の職人かそれと同等の技術を持った者の手による代物だった。
「サレオス」
「すまんカヒム、少しだけ指して行っていいか?」
「いや、そのことじゃ……」
「負けたら帰るよ」
言い淀んでいるうちに、サレオスは駒を持って即席の大会会場へ向かって行ってしまった。村人たちの中には駒の価値に気付いたような顔をする者もいたが、誰も仔細を聞かない。そうだった、ここはそういう村だ。安堵の念がぼんやりと広がり、カヒムは手近な椅子に座った。ただの渡守が趣味で持つには少々凝った細工の駒。まるで軍人や兵士が褒賞として賜ったような。渡し賃の代わりに客に貰った、と言われればそれまでのことだ。考えても詮はない。
負けたら帰ると言っておいて、サレオスが負ける様子はとんとなかった。一局、もう一局、と請われるまま指すうちに、来客の報を聞き付けた村の衆が集まり出し、日が傾き始めた酒場は少し早く夜の賑わいを取り戻そうとしていた。
「あんたら、新顔と指したくてわざと負けてるんじゃないだろうな」
いい加減待ちくたびれてきたカヒムが疑ると、「違う、違うって!」鋳掛屋と粉引きの親父が揃って否定する。
「渡守さん、本当に強いんだよ!」
「相当やり込んでるぜありゃあ」
村に来る前からよく指していたという二人が言うのだから嘘ではないようだ。カヒムも素人ではない。指し方を見れば上手いかそうでないかくらいはわかる。思いがけぬ強豪の参戦に卓は盛り上がり、サレオスもサレオスで、勝つ度に酒を奢られるので満更でもないらしい。ほんのり染まった顔を綻ばせ、駒を並べ直しながら次の相手を待っている。今頃ならあの顔は自分に向けられていたはずだったのに。カヒムの心中に子供じみた独占欲が鎌首をもたげてきた。待っている間に少しだけ、と飲んでいた酒も悪かったのかもしれない。一度意識するとその熱は酒の勢いを借りて膨れ上がっていく。そうだ、そもそも約束はこっちが先なのだ。外の話を聞きたいとか言っておいて皆すっかり忘れていやがるし。どうせ数日しか居られないのに、その貴重な時間を潰されるのは耐え難い。
どうにも我慢できず、カヒムは椅子から立ち上がった。人混みをかき分けて、遊戯盤を挟んでサレオスの向かいに強引に座る。サレオスが一瞬きょとんと目を見開く。
「カヒム」
「俺が勝ったら帰るぞ」
言い放つと、強気な挑戦者の登場に、ヒューッという口笛と歓声、不満の声が半々に上がって酒場が揺れた。サレオスはバツが悪そうに後頭部を撫でて、飲みかけていた酒を脇に置いた。そして、どこか好戦的に笑いながら駒を配した。
威勢よく挑んだはいいが、駒を一つ二つ動かした時点で早くもカヒムは後悔し始めていた。実は村に来る前から遊技盤のルールは知っている。村での流行にも乗ってそこそこいいセンまで行ったクチだが、今指していたサレオスの腕には到底及ばないであろうことは酔いの回った頭でもよくわかる。
チャトランガの戦略は攻撃寄りと守備寄りに大きく分けられるが、サレオスは主に守りの型だ。臣の駒が動きの要となって王を守る。相手の進軍をある程度までは許すが、その間に固められた布陣がそれ以上の進行を許さない。先程敗けた者たちは、最初こそ優勢だが途中から鉄壁の臣を超えられず、攻めあぐねている隙に王を取られる…といったパターンばかりだった。カヒムは思案する。素の腕で敵わないなら意表を突くしかない。
「おっと、いいのかい」
サレオスが面白がるような声を出した。カヒムは戦車の駒を囮に、サレオスの臣の駒を取る。無防備になった戦車は次の手であっさりと取られてしまう。カヒム側の戦力が大きく削がれた形だ。
「おい、そんなことしたら逃げしかなくなるだろ」
外野が野次を飛ばすが、カヒムは駒に集中した。攻勢寄りになったサレオスの手からギリギリのところで王を逃し続ける。相当飲んだと思われるのにサレオスの腕は衰えることはなく、気を抜けば一瞬で詰んでしまいそうだ。
「どうする?ジリ貧だぜ、このままじゃ」
こちらの王を追い詰めながらからかうように笑うサレオスの表情に、異様な凄みが過ぎった気がして、カヒムはゾクリとした。ともすれば魅入られそうになるのを堪えて、慎重に一手、指す。観客の中からあっと声が上がった。
「渡守さん、詰みだ!」
どよめきが広がった。逃げる合間に進められていた歩兵の駒が、守りのわずかに崩れた隙からサレオスの王を捉えていた。審判代わりの者たちが検証も忘れて息を呑む横で、カヒムはサレオスの酒を奪い一息に飲み干して言い放った。
「俺の勝ちだ」
盤上の駒に目を走らせていたサレオスは、その宣言にくっと喉奥で笑った。普段の快活な笑いとは違ったそれは、しかし、心底愉快そうな笑みだった。
「まいった、投了だ」
サレオスの両手が掲げられた瞬間、弾かれたように歓声が上がった。新たな王者を逃さんとする客たちが集まってくるよりも早く、カヒムは急いで席を立った。押し付けられるグラスを退け、飛び交うエールの泡をくぐって、サレオスの腕を掴んで酒場から逃げ出した。蹴破るように通り抜けた横板の扉が、背後で抗議するようなきしみ声を上げていた。
家までの道のりはよく覚えていない。強い酒に当てられた頭で、振り返ってはちゃんと正しい手を握っているか月明かりに確認した。背後からは衣擦れとともに時折笑い声が聞こえる。くぐもったそれは、水底の泡の立てる音にも似ていた。
帰り着いてすぐ、灯りもつけずに、閉めたばかりの扉に体を押し付けて口づけた。サレオスはされるがままにしていた。走ったばかりの、酒精の香り濃い互いの息に溺れるように苦しくなって、唇の端だけ触れ合わせて荒い呼吸を逃がす。
「わざと負けたろ」
「さあ……どうかな、いい手だったぜ」
はぐらかすその声音からは真意が読み取れない。だがカヒムは絶対に嘘だと思った。あれだけの腕を持ちながら、歩兵の動きに気付かなかったはずがない。カヒムが勝利宣言をした後からだって、巻き返すことは不可能ではなかっただろう。結局また、手のひらの上だ。
息を整えていたサレオスが、あ、と声を上げた。
「駒、忘れてきちまった」
あの、造りの良い兵士の駒。きっと今頃は飲兵衛の指し手たちが、誰の駒かも忘れて二次大会に興じているに違いない。
「明日取りに行こう」カヒムは言って、急いで付け加える。「で、もう一局やるぞ。今度は酒も手加減もなしだ」
サレオスは顔を隠すようにして頷いた。笑っている。言い訳しようとすると、「じゃあ今日は?」と問われた。酒と勝負の興奮の名残で潤んだ目がこちらを見上げている。そんなこともう、手を読まずとも決まっている。カヒムはもう一度深く口づけると、サレオスをかき抱くようにして寝台へと向かった。